習志野鷺沼地区では、毎年3月第一土曜日に八剱神社例大祭「剣」(剣まつり)が開催されます。
長剣を携えた白装束の若者たちが一日かけて地域を練り歩く、いっぷう変わったお祭りなのですが、津田沼周辺に暮らしていても「そんなの見たことも聞いたこともない」という方は少なくありません。
どんなお祭りなのか詳しく知りたいと思っても、剣まつりについての記述がある文献はごくわずか。そこで訪ねたのが、剣まつりを題材にした紙芝居を制作し、その上演会などを手がける岩城昌子さんです。
八剱神社のすぐ側にある岩城さんのご自宅の書斎で、じっくりとお話しを伺いました。
「剣まつり」の歴史は、災いの歴史でもあった
そもそもこの不思議なお祭りは、いつからはじまったのでしょう。「300年前から続いている」という説もありますが、実は正確なところははっきりしません。岩城さんは町内の古老から「今みたいに毎年ちゃんとやるようになったのは100年くらい前から」と聞いたそうです。
『習志野市史 第一巻 通史編』には、大正四年生まれの鷺沼の男性から聞き取ったという、次のような例話が収録されています。
大正八年に大嵐がきて、ほとんどこの一四号線のこれ(集落)が流されちゃってね、随分死者が出たですよ。そいであの、(大嵐のあと)コレラがはやってね、それでこの八剱さんの祭りを、要するに剣祭ってのを始めたのは、この時期かららしいですね。(八剱神社は、)ずっと、三〇〇年前か四〇〇年前から続いてたみたいですね。だけど、本格的に祭をやったのは、大正八年っていってましたね、それまでは、そう重きをおいてなかったらしいですよ。
習志野市史 第一巻 通史編
大正八年というと1919年。鷺沼で死者がでた自然災害としては、大正六年(1917年)の大津波(台風による高潮)が記録に残されていますが、いずれにしても今のような形で剣まつりが定着したのは、およそ100年前とみていいようです。
「戦争(第二次世界大戦)中もちゃんと続けていたそうです。なんでも『剣士をやると戦場で弾に当たらない』と信じられていたのだとか。神様のご利益にすがりたかったんでしょうね。だからむしろ必死になってやったらしいです」
ところが1945年の敗戦によって、剣まつりは一度中断されてしまいます。
「剣まつりで使う8本のご神剣(矛)って、すごく立派なんです。だからアメリカ軍に没収されたらどうしようと心配したらしく、一年だけ中止になったと聞きました。まあでもそれは建前というか、私が話しを聞いた方も『まっ、金もなかったしな」って。でもそうしたら、また伝染病が流行ってしまったらしくて、それで再開することになったらしいです」
台風、戦争、疫病。剣まつりは、災いの記憶と深く結びついている。岩城さんは「いろいろな災いがありますが、このあたりの人が一番怖がっていたのはやっぱり疫病ではないでしょうか」と指摘します。
『習志野市史』や『千葉県伝染病史』といった郷土史によると、鷺沼を含む東京湾沿岸の農村は、千葉県内でも特に感染症が猛威を振るったエリアだったとのこと。チフスやコレラといった感染症がたびたび蔓延し、大勢の命が失われたことが記録されています。
医療の進歩した現在でも、感染症を前にして私たちにできることはそれほど多くはありません。この数年間のコロナ禍で、誰もがそれを実感したはずです。変化したのはお祭り=人が集まることに対する私たちの意識でしょう。かつて「疫病を防いでくれるもの」としてはじまった剣まつりが、「感染の可能性を高めるもの」とされてしまったのです。
「2020年は終戦以来はじめて剣まつりが中止になってしまいました。2021年からはなんとか再開できましたが、子どもたちが万が一にも感染したらいけないということで、大人たちだけで執り行うようになっています。仕方のないことではありますが、やっぱり残念ですね。でもみんなで『もう少しでコロナ禍も落ち着くから、そうしたらすぐに元に戻るよ』と話しているんです」
子どもたちが大活躍し、大切にもてなされる一日
では、本来の「剣まつり」の姿とは、どのようなものなのでしょう。ほんとうは紙芝居『剣まつり』をご覧いただけたらいいのですが、ここではその様子を文章でできる限り再現してみます。
剣まつりは、八剱神社の本社である根神社からはじまります。「朝はわりとゆっくりめ」とのことですが、それでも剣士を務める中学生や高校生の男の子たちや、氏子さんをはじめとした関係者は、午前中のうちには根神社の社務所に集合。ちなみにある時期までは、子どもたちは神社に集合する前に、今はなき鷺沼温泉で身を清めてくるという習わしもあったとそうです。朝がゆっくりなのは、その名残なのかもしれません。
「みんなでお昼を食べてから、子どもたちが白装束に着替えたり、剣や太鼓、ご神酒、ご宝銭の準備をします。万端整うのがだいたい12時過ぎ。そこから天狗のお面を被った氏子さん、宮司さん、氏子総代、そして剣士たちが行列になって八剱神社まで練り歩きます」
八剱神社に到着すると、宮司さんによる神事が営まれ、それが済むと参拝に訪れた人たちにみかんやお菓子、ご宝銭などが配られます。
さて、剣まつりはここからが本番。剣士たちは「悪事災難のがれるように!」と大きな声で唱えながら氏子の家々を回ります。
今は玄関口でご神酒やご宝銭を受けとるだけの家がほとんどですが、かつては剣士たちが土足のまま家に乗り込んで悪霊を祓っていきました。
「剣士たちが家を突っ切るように駆け抜けていったそうです。今でも『やっぱり剣まつりはそうでなくちゃ』という方がいらしゃって、毎年何軒かは『駆け抜け」をやってもらっています」
家々を回る道すがら、剣士たちはかつての村境(今でいう幕張、津田沼、藤崎、大久保との境)だった四箇所を訪れて「辻切り」を行います。宮司さんの祝詞に続いて、剣士たちが半円を描くように剣を構え、「悪事災難のがれますように!ヤー!ヤー!」と叫びながら、剣を突き出します。これはつまり「悪いものは村の外に追い払ってしまおう」ということのようです。
道のりの途中には「お宿」と呼ばれる休憩所が四つ設けられていて、そこでは剣士たちをねぎらうためにご馳走が準備されています。
「10年くらい前に、町会の女性役員さんの意見で、メニューがすごく豪勢なものに改革されたんです。最初のお宿でお寿司が出たかと思うと、次はピザで、その次は霜降り牛のすきやき。最後はメロンやヨコヤマ(ル・パティシエ ヨコヤマ)のケーキなどで神様の使いである剣士たちをもてなすんです。食べすぎてお腹が痛くなっってしまう子もいますけどね」
四つの村境とお宿を回り終えるのは、だいたい夜の10時過ぎ。体力のある高校生はともかく、小柄な中学生の剣士たちは、お役目が終わる頃にはヘトヘトになってしまうそうです。
今と40年前とで変わったこと、変わらないこと
長年に渡って八剱神社の近く暮らしてきた岩城さんですが、剣まつりに詳しくなったのは最近だと言います。
元々は東京で生まれ育った岩城さん。鷺沼出身のご主人と結婚したことをきっかけに、今の住まいに引っ越してきました。その頃の八剱神社は、境内に木々が鬱蒼と生い茂っていたそうです。
「夫が子どもの頃なんかは、木から木を伝って境内を一周できたそうです。昔は子どもの遊び場だったみたい。ウチの子が小さいとき、だから今から40年くらい前も、みんな結構ここで遊んでいましたよ。今はもうすっかり子どもは見かけなくなってしまいましたけど」
剣まつりの存在を知ったのは、引っ越してからしばらく経ってからのこと。ある朝、近隣の人が何人か集まって、神社を掃除しているのを見かけて「今日はどうしたの?」と声をかけたそうです。
「そうしたら『今日は剣の日だから』って。よくわからないけど、とりあえず私も掃除を手伝っていたら、じゃあっていうんで、ウチも一緒にお祓いしてもらうことになったんです。玄関先でコップとおひねりを準備して待っていると、剣士がやってきて『悪事災難のがれますように』と唱えてから、ご神米とご宝銭、それからコップにちょっとお酒をついでくれて。代わりにこっちはおひねりを渡して、という具合でした。そうそう、これはあとから教えてもらったんですけど、『500円玉が入ったおひねりをふたつ』っていうのが、まあ決まりみたいですね」
「夜になってお風呂に入っていると、遠くから『ドーンドーンタッタカター』っていう太鼓の音がね、風に乗って聞こえてくるわけ。ああ、まだやってるんだって。雨の年もそうなんだから大変ですよ。三月一日っていったら、まだまだ寒いですし」
現在は三月の第一土曜日に開催される剣まつりですが、かつては毎年三月一日の開催と決まっていました。
「だから年によっては、子どもたちは学校を休んで参加するんです。ウチの子も高校生のときに2回、剣士として剣まつりに参加しているんだけど、あの頃もまだ三月の一日でしたね。でも、考えてみるとウチの子から剣まつりの感想って、聞いたことがありません。まあ、当時は私もそんなに関心がなかったから」
今聞いておかないと、失われてしまうものがたくさんある
剣まつりに興味を持つようになったきっかけを尋ねると、「うーん……」と少し考え込んでしまった岩城さん。どうやら明確なきっかけはないそうです。
「私は学生の頃から、紀行文とか民俗学の本を読むのが好きでね。その影響はあるのかも。でもやっぱり少しずつですよ。この地域に溶け込んでいくなかで、段々と興味が湧いてきたんだと思います」
かつてご自宅で学習塾を営み、地域の子どもたちと接していた経験も大きかったようです。
「ウチにずっと通ってくれていたタケちゃんっていう男の子がいてね。その子も剣士をやっていたんだけど、聞いてみると『お父さんも、おじいちゃんも剣士をやっていた』っていうの。その話がすごく印象的で。いつか剣まつりを紙芝居にできたら、と思ったのはその頃からかもしれないですね。もう15年くらい前のことです。だから最初は、『タケちゃんの三月一日』ってタイトルにしようと思っていて。結局やめちゃったけど、紙芝居の主人公の名前はそのまま『タケちゃん』にしました」
岩城さんの現在の活動は、愛読してきたいくつかの本からも影響を受けているといいます。その一冊が、評論家・渡辺京二の代表作『逝きし世の面影』です。
「この本では『近代化によって、江戸時代の日本の文化が失われた』というようなことが書かれているんだけど、渡辺さんは『江戸時代は子どもの楽園だった』とも書いていて。ようするに外国に比べると、子どもをすごく大事にしてきたっていうんです。それって子どもを神様の使いとして扱う剣まつりにもつながっているんじゃないかと、あるとき気がついて。拡大解釈かもしれないけど、なんだかすごくうれしかったんです。『逝きし世』の欠片が、ここにはいくらかでも残っているんだって」
だからこそ「このまま放っておいたら、せっかくこれまで残っていた文化が、失われてしまうかもしれない」という危惧も抱きました。
「剣まつりに限りませんが、私の上の世代の方たちがどんどん亡くなっていくのを目の当たりにして、昔の話を聞いておくなら、もうギリギリのタイミングなのかもしれないと思ったんです。今ちゃんと歴史を記録しておかないと、いろんな文化がどんどん失われてしまうんじゃないか、と」
鷺沼を守ってくれた「剣まつり」を守るために
そうした思いもあって、2018年から紙芝居の制作を本格的にスタート。剣まつりに同行しながら、宮司さんや、かつての剣士を務めた古老など、地元の人たちへの取材を重ねていきました。
「この紙芝居の内容は、すべてインタビューに基づくもので、嘘は一切ありません。でも事実を書き連ねていくだけだと、つまらないじゃないですか。面白く読んでもらうためには、やっぱりストーリーが大切。だから俯瞰で説明するのでなく、ひとりの男の子の目を通して剣まつりを描こうと思ったんです」
そのストーリーに合わせて、絵を描いてくれたのは高橋恭子さん。たまたま八剱神社に散歩に来ていた高橋さんに、岩城さんが何気なく紙芝居の話を伝えたところ「水彩画を習い始めたので、私でよかったら手伝いたい」と申し出てくれたそうです。
「高橋さんの絵がほんとうにいいんです。構図や色づかいも素敵だし、食べものなんかすごく美味しそうでしょう。この紙芝居を見た人は、みなさん口を揃えて絵をほめてくれます」
途中からは岩城さんが以前から所属していた「鷺沼小学校のおはなしの会」の木村さんと舘田さんも制作に参加。三人で知恵を絞りながら台本をブラッシュアップしていきました。
メンバー四人の力をあわせて、ついに紙芝居が完成したのが2021年。コロナ禍で思うように上演できなかったものの、2022年の12月には鷺沼小学校の4年生の授業で、紙芝居を披露しました。
「嬉しかったのは『僕も/私もやってみたい!』と言ってくれた子がたくさんいたことです。あとはやっぱりみんな、ご馳走に興味津々でしたね。どういう形であれ、地域の伝統に少しでも興味を持ってもらえたらいいなと思っています」
今後は子どもだけではなく、大人、特に鷺沼地域以外の人に剣まつりの存在を知ってもらうことが目標のひとつだと言います。
「鷺沼にはこんな伝統があるんだ、ということが多くの人に知れ渡れば、地元の私たちとしても『これからも剣まつりを守っていかなくちゃ』という気持ちになりますから。もし剣まつりに興味があるという方は、いつでもご連絡ください。どこでも上演に伺います」
追記:剣まつりの紙芝居を上映してほしい!という方がいましたら、弊メディアのコンタクトフォームよりご連絡ください。編集部がお取り次ぎいたします。
3月18日にプラッツ習志野で開催されるイベント「はじめの一歩フェスティバル vol.05」にて、紙芝居『剣まつり』が上映されます。詳しくは下記のURLよりご確認ください。